びばるのシコウ部屋

シコウ 思考 嗜好 志向 試行 施行 施工 指向 私行 至高? なんというか、楽しそうな音。

神も仏もいなくても

死に幸せを感じる人は、死ねばいいとわたしは思う。
これは、攻撃的な意味なんかではない。
本当に本当に生きるのをただ純粋にやめたい、と思った人は積極的にやめるべきだ。
それのためなら安楽死だって法律で認められたらいいと思う。楽な自殺の方法はもっと知られてもいいと思っている。

ただ、「死にたい」と言う人の中に実際に死にたい人は何%いるだろうか。
よく言われることに、「苦しくて苦しくて仕方ないというのは、現状をよりよくしたいということだ」ということがある。
現状を変えたいのにどうにもならない。頑張っても成果が出ない。そもそも病気や悩みで頑張れない。そのうちどんどん自分まで嫌いになる…
鬱の思考に落ち込んでいる人が「生きる価値」を考える時、当たり前のようにそれは「自分には生きる価値がない」と落ち着くだろう。
「自分が生きている価値ってなんだろう」苦しんでいる人にそう言われたときに、わたしならどんな説明ができるだろうか。
どうやったら、あなたは存在するだけで素晴らしいという、ともすれば宗教じみたバカバカしいお花畑のように聞こえる解釈を信じてもらえるんだろうか。
わたしはあなたを好きだよと伝えても、鬱な人には伝わらないことが多かった。家族があなたが死んだら悲しむといったところで、家族もいない友人には何が伝わるんだろう?


人が生きている普遍的な価値を伝えるための説明は、
わたしは、多分まだ2つか、3つ。
1つは、経済の効果。
2つめは、思想の効果。

経済効果は、言わずもがな。
人は生きているだけで経済を回す。しかも、死にたいまで言っている人は往々にして過剰なまでに、生活に必要ないまでに働いている。
仮に働いていなかったとしても、物を買えば生産者が儲かる。働いていれば、それだけでもう素晴らしくその人は経済と世界に多大なる貢献をしている。

もう1つは、それとは逆の位置にあるかもしれない、思想の効果。
人は誰も同じ脳を持っていない。同じ体を持っていない。思想は人によって違う。それを伝えたり共有できること。ともすれば鬱の状態にある人の意見や乱暴な人の乱暴な言葉ですら常識と同じぐらい、下手すればそれ以上に価値がある。

もし3つめがあるとしたら、最後の理由は「情」だ。
わたしがその人を必要だと、素晴らしいと思っていることを伝えたらいいひともいるかもしれない。

もっともっとこれを増やしたい。
生きている価値をいろんな角度から説明したい。そしたら、もっといろんな人に「さいこーだよ!」って言えるんだろうか。辛いひとにも苦しい人にもどこか、どこかは自分は最高だって信じてもらえるんだろうか。

 

わたしは「人」が好きだ。
国民でも社員でも学生でもない「人」がこの上なく好きだ。
どうか、どれだけ削られても、あなたの芯は変わらず人であって。