びばるのシコウ部屋

シコウ 思考 嗜好 志向 試行 施行 施工 指向 私行 至高? なんというか、楽しそうな音。

無我夢中 我武者羅

本当に良いものを作るためには、自分は無我であるべきだと思っている。
自分ではなく、周りの人が本当に何が必要なのか。ニーズを満たせば良いということではない。どうしたら楽になれるのか。
でもそれでどうなりたいか?良いものを見てほしい だけじゃない。結局評価されたいだけだ 無我ではない。
無我になるにはどうしたらいいんだろう?

夜と霧



兼ねてから友人から勧められていた本。


アウシュヴィッツなどの収容所での生身の人間の精神について書かれた本。映画のような具体的な情景描写に始まり、最後には「人に生きる意味はあるのか?」という普遍的な逃れられない疑問に答える。

彼は人には生きる意味があるという。
どれだけ辛くても苦しくても、逆に意味の方から常に私たちに問われている、今この瞬間も刻々と問われているという。
楽しみも苦しみも等しく問うてくるもの。それに対し最善の選択を出し続けることこそが人生だし、それが意味に更に回帰していくと、言ってる、のだと思う。(わたしも不勉強でこの解釈が正しいのかはわからない)

これはレビューであり自分のブログというか日記帳でもあるのでそこから更に自分の意見を述べてみる。
わたしはこれを「色」と捉えてみた。
喜びにも悲しみにも痛みにも苦しみにも本当は何も色なんてついていない。
動物は(実際にはわからないが)往々にして起きたことに単純反射をする。
そこには考える余地もなければ思い出にもならない。体験は体験として通過していく。
でも、人間はそれに色をつけられる。そして更にやろうと思えばそれを共有できる。
小さなことにも、いや小さなことにこそいちいち色を見出せる人は尊いと思う。
通過していくエンタテインメントを絶やさないようにして居る人間にはなりたくない。



追記
昨日思考していたツイート 多分関連性がある

どんだけつらいことや環境にも未来に対する報酬なんて何一つないんだよ。だから今そのつらさや環境をどう捉えて今楽しむ材料に変えていくかってことだと思う。その積み重ねこそ出来事の色であり意味に回帰するんだと思う。そうやってご褒美は毎日作られていくんだ。

あるいは選択の放置が我慢と言いたい 積極的に我慢を選択することももちろんあるけどね 美徳なんかじゃなくてただの現状の通過に我慢が用いられることも多いよねってこと

工場

差別をなくすことは大事だ。
平等って大切だと思う。
小学生でも知ってる当たり前のはなし。


『みんなで太陽の下に出て、巨大な大陸で一緒に暮らそう!』

そんな社会。

素晴らしいこと。
人々が手を取り合って、それぞれが活躍できる社会。1億総活躍みたいな。すごい、なんだか未来が見える気がする。

でも、現実は多分そうじゃない。
世界は昼だけじゃないし、昼が嫌いな人もいる。夜にひっそり一人で過ごしたい人もいれば、仲間内だけで楽しみたい人もいる。

そういう人が、白日の下に縄を付けられて引きずり出されているような気がする。

無理やり太陽さんさんの大陸に連れ出されても、つらい。合ってない。そもそも、みんなで大陸にいるもんだから場所が全然ない。みんな場所取りに必死だ。

ほら、君も平等だよ!太陽の下で一緒に暮らそうね!


大陸は、他にもあるのに。島に住める人だっていたのに。夜を楽しめる人だっていたのに。

『いまは、みんなが活躍できるファッショナブルで素晴らしい世界ですよ。』

ずっと引っかかっている、半年前ぐらいに言われた言葉。
そう、言われても、その素晴らしい世界にとやら居たくない人間はどうすればいいんだ?

夜は次第になくなっていく。

誰も悪くない話

人は、考えたくない。
楽をしたい。
自分を楽にしたい。
でも楽したいから、楽にする方法は考えたくない。

賢い人は、考えた。
楽になる方法を。

人は、楽をしたいから、なんとなく賢い人の言うことに従った。なんとなくお金もある。大丈夫だ。

賢い人は考えた。もっと楽をする方法を。

人は、楽をしたかった。なんとなくお金は減った。ちょっと辛いけど、まあ大丈夫。

賢い人は考えた。まだまだ楽がしたい。

人は楽をしたかった。でもなんだか最近毎日働いてしんどい。楽をしたいし、考える暇なんてない。

誰かが死んだらしい。でもみんな忙しいし楽をしたいから考えなかった。


世界は私たちの思い通り。


外見は中身の一番外側

だっけ。
だから手を抜くなっての、すごいわかる。
だけど、そこで【外見】と定義されているものが、往々にして違う気がする。

服や化粧。
もちろんそれも人によっては重要かもしれない。
ただ、その人の思考や行動、生活スタイル全てを表した『生き様』は
よっぽど見る人は見える【外見】に現れるし、化粧や服では隠しきれない。

目や姿勢、体型全てが外見だ。

なにも痩せろと言っているのではない。

そうではなくて、かわいさも綺麗さも今やこんなにもいろいろあるんだ。
せっかくこんなにあるんだから、自分なりに解釈する人がもっと現れてもいいんじゃないかな、と思う。

化粧や服だけが【外見】で
それを頑張れば【綺麗】や【かわいい】だなんて悲しすぎるし貧しいよ。

追記
ちょっとずれるけど、デブのゴスロリとか、腐女子のハニーズアクシーズとかめっちゃ馬鹿にされるけどさあ、わたしはその人が本当に好きで好きで着てて幸せそうならそれだけですっごく幸せになっちゃうし私の世界を幸せにしていると思うし、実際胸張って着てる人はかっこいいと思うよ。大好きだよ。

追記2

思ったけど、多分揶揄する人が悪いんじゃないんだ、これ。揶揄される人への教育が主に行き届いてないんだ。それが【恥】なのか【罪】なのかそもそもその二つにも当てはまらないただの【主観のぶつかりあい】なのか。これをちゃーんと説明できたら揶揄する人も結果的に考えるようになるんじゃないかな。

おもいわずらい

昨日熱に浮かされたまま風呂に入りある事実に気づいてしまった。
すなわち、今まで私は自分が『考えるのが好きだしずっと考えている』と思っていたが

たぶんそれは違うのだろうということだ。

私には【自動思考】と【手動思考】がある。
自動思考は思考のうち『思う』がメイン。
手動思考は思考のうち『考える』がメイン。
私が行っていたのは無意識の、形態反射のような自動思考。

丁度痒いから掻く、熱いから手を引く、のようなこと。
生きているし暇だから思う、それだけだ。

人の頭の中とはどうなっているのだろうか?
わたしは、こうだ。

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三つ四つのメモ帳のようなものが立っており

相互間の行き来はできず使い捨てられていってしまう。

そして巨大な音楽プレーヤーが支配しており常に音楽が大音量で流される。

 

恥ずかしいけれど本当にこれがすべてだ。
もっともっと実際はカオスで、

音楽プレーヤーは私の意識にかかわらずランダムに音楽を再生するし、

それに思考は毎度邪魔をされる。

 

なぜこうなのか。

これは私が高機能自閉症だからなのか、それともみんなこうなのか。
私にはわからない。
ただわかることとしては、

自動思考は手動思考が必要なさまざまな状況において無益で邪魔だ。

自動思考のせいで私は紙やPCを前にしないと頭の中だけではプロットも書けない。
それどころか『妄想』さえもままならない。

音楽や環境に阻害されて変わっていってしまうからだ。

 

もちろん、仕事にもバリバリ影響が出る。
たとえば、ラーメン店でバイトしていたとき。

客が「とんこつ一丁」という。

私はまず客の言い方がやさしければなぜその人が優しいのだろうかとか

そういうところから始まってしまう。
そして自動思考は続き、

最終的には店内を流れるBGMと融和し

私はとんこつだったか塩ラーメンだったかすら忘れたまま店長の下へ戻る。
当然クビだ。

 

よく、「集中しろ」といわれる。じゃあ、集中の仕方を教えてください、先生。

たぶん、そういう次元にいないんです、われわれは。
フラッシュのような速度でバンバン流れる音のたったひとつに

文字という道しるべすらなくつかまっていろなんて不可能です。



 

これってみんなあるコト??



追記

ともかく【手動思考】を増やそうと思う。